ご都合主義と逆算の文学 9月20日
今日は少々真面目な事を書きます。ギャグはありません。
少し長くなりますが、どうしても書かずにはいられなかったのです。
いつもの池田のかるぅ~い駄文になれていらっしゃる方は、ご勘弁ください。
まず。
<ご都合主義>という言葉があります。
行き当たりばったりなのに、それでもなぜか偶然、自分達に都合がいいように、
ラッキーな事が起こって、物事がうまくいく事です。
そこに必然はありません。この事をまず覚えていて下さい。
戦前、日本にミステリーが輸入され、多くの若者が身を投じました。
ミステリーは理論を組み立て、仕掛けをし、それを読者に悟られないように
構成していかねばなりません。狡猾で知的な犯人は、罠をはり、仕込みをし、
仕掛けを施し、犯罪を構築します。小説の中の善良な登場人物や、我々読者は
順を追ってそれらに遭遇する為、驚愕の不可能犯罪に見えてしまう訳です。
しかし不可能に見える事も、逆から見れば偶然ではなく、必然です。全ては前もって
仕込まれているのですから。それを探偵役が推理し、暴いていく。つまりミステリー
とは初めから決まっている結論に向かって進んでいく文学です。作者はまず結果を決
め、そこから逆算して構築し執筆していく。数学と同じように。マジックと同じよう
に。建築と同じように。
これをボクは先達に敬意を表し、<逆算の文学>と呼んでいます。
ただ、ミステリーを文学の範疇に入れるのか?というかつての命題は
今はちょいと横へ置いて進みます。
ミステリーを執筆、もしくは理解するには、文科系的頭脳より
理数系的頭脳を必要とします。
事実初期のミステリー界では、海野十三、小酒井不木、甲賀三郎、大下宇陀児、
木々高太郎、横溝正史、角田喜久雄の大御所達、更に戦後直ぐに登場した高木彬光、
山田風太郎のビッグネーム……全員理系です。
もっとも著名な偉人・江戸川乱歩は文系でした。だからか、逆算の文学は初期の
短編等ほんの少しで、実はその一生をミステリーの市民権獲得に捧げた人なのです。
一方……文学や文筆、著述に携わる人は大半が文系です。
大昔、この業界の大半を占める文系の、それも権威ある人達が、逆算の文学を理解
しにくいのか、ほとんど無視を決め込んだ時代がありました。そう、逆算の文学を
ご都合主義と決めつけて。
ご都合主義は偶然の産物。
逆算の文学は必然の産物。
まるっきり対極にある筈です。
それでも理解出来ないものは全てご都合主義というレッテルを張った時代。
事実、横溝正史や山田風太郎という大作家でも、一度も直木賞の候補にすら
なっていません。坂口安吾という良き理解者が推薦しても、他の選考委員は
無視を決め込みスルーした時代があるのです。
その頃の推理作家が、直木賞や芥川賞を獲った作品は、皆、逆算の文学からは
ほど遠い犯罪小説や、犯罪心理小説なのです。
つまりミステリーは、いえ、逆算の文学は文学ではないという事なのです。
もう一つ。
今でこそコメディは市民権を得ています。
しかし45年前、劇団NLTの創始者・賀原夏子が、関西ではない東京で、それも新劇で
NLTを欧米のコメディ専門劇団にすると宣言した時、人はこう言って反対したと言い
ます。コメディは一段低い大衆演劇。しかもご都合主義の演劇だと。
欧米のコメディにはドンデン返しがつきものです。つまりは仕込み、仕掛けが
あります。そう、逆算の文学なのです。
そんな時代が昭和の大半なのです。
しかし、昭和の終わり頃から時代は変わりました。
少なくともボク達より下の世代では、逆算の作品を理解するのに、文系も理系も
ありません。今ではミステリーも多く直木賞を受賞するようになり、また逆算の
文学を十分に理解している文系出身の本格派推理作家も多くいて、つまり、逆算
の文学は市民権を得ていたと思っていました。
さて……
ここまで書けば理解して頂いたと思います。
ご都合主義と逆算の文学は違うという事が。そして、かつてこの二つを混合する人が
いた事も。逆算の文学を貶める人がいた事も。今でも文系年配者の中には無理解な方
がいらっしゃいます。でも逆算の文学が市民権を得た今日、そんな事をなさる方はも
ういないであろう事も。
いたのです。
先月三越劇場で上演した『花はらんまん』は完全に逆算の文学として書きました。
僕も元々は理系出身ですし。
内容は、司葉子さん演じる主人公が、問題山積の家庭に住み込みのメイドとして
やってきて、全ての問題を鮮やかに解決するというお話です。
殺人や犯罪は出てきませんが、形態としてはミステリーコメディと同じ構成です。
以下ネタバレです。
主人公は、実は大セレブの未亡人。その彼女が、友人で認知症の兆候が表れ始めた
大会社の創始者夫人からの依頼を受け、全ての問題を前もって調査し、仕込みをし、
仕掛けを施し、身分・名前を偽ってやってきます。そして、一つずつ問題を解決して
いき、最後にネタと身分を明かします。
仕掛けを知らない他の登場人物やお客様は、それを順を追って体験する訳です。
つまり、最初から仕込まれた、まるっきり逆算の作品なのです。
勿論、伏線には細心の注意を払い、観客には気づかれないように、でも常に観客の
前に手がかりは提示しています。初めて登場した時の司さんのお着物のレベル。
司さんと木村有里さんとの目配せ。ダンスコンテストの手書きのチラシ。何故か
全てを知っている司さんの言動、etc.etc.……
そう、ミステリーで言うフェアプレーの精神です。
とある批評にこう書かれました。「ご都合主義の失敗作だ」と。
「全てご都合主義に問題が解決していく。人物は浅く……」
情けなくなりました。
ご自身の無知を棚上げして、まだこんな古い考えを押し通す方がいたのですね。
確かに80歳近い、文系出身の方です。
でも先だって読売新聞の夕刊で劇評を下さった小田島先生は、ちゃんと逆算の作品を
何事もなく理解していらっしゃいます。
これが「もっと練りこんでこい!」と言われれば、「成程、すみません」です。
「本が駄作だ!」「あんなレベルじゃ駄目だ!」と言われれば「もっと勉強します」
と、素直に謝ります。
正当な批判は真摯に受けます。ボクなんてちっとも完全じゃないのですから。
でも、ご都合主義の一点張りで全てを否定されたら……
ボクはどうすればいいのでしょう?
更にこう書かれています。「私は大衆演劇を馬鹿にするものではないが」と。
つまり、あの芝居は大衆演劇で、大衆演劇は馬鹿にしますと仰っている訳ですか?
逆算の作品は理解できないから、ご都合主義と書くしかないのですか?
未熟だった若い頃、よく批判を受けました。反省し、より精進しようとしました。
でも、今になっても逆算の文学を理解しない人に、公の場で、「ご都合主義の失敗作
を書いた奴」と断じられたのです。
ボクはどうすればいいんですか………
出演者、スタッフは、この作品を逆算の作品とちゃんと理解してくれています。
少なくともボクのお客様は、何の疑問も持たず喜んで観てくれました。
じゃあ、作品としてつまらなかったのか?
喜劇は、反応がその場で帰ってくる演劇です。
ウケました。お客様は喜んで下さいました。
コメディとして成立したから、ウケているのです。
ご都合主義………
確かに逆算の手法が大好きなボクは、昔、そう批判された事がありました。
でも、今になってもまだこんな事を言われるとは思いませんでした。
ボクは怒っているのではありません。情けないのです。
あの批評は一生残ります。
ボクにとっても。
あなたにとっても。
そう、あなたが亡くなっても、残るのですよ。
恐ろしい事です。
だからこそ、自身の仕事には、たとえ及ばないまでも、プロとしての良心に従って
最善を尽くすしかないと、ボクは信じています。
長々書きました。お許し下さい。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。
これからもより精進して池田らしい作品を観て頂くつもりです。
頑張ります。
気が付けば秋です。
実家の近くのスーパーの駐車場で、ふと見れば雲一つない空でした。
近くの公民館からは、秋祭りの山車の稽古の太鼓の音が聞こえます。
どんどん本格的に涼しくなるのでしょうね。
皆様、お風邪などお召しになりませんように。
次回から、また明るく楽しくかるぅ~い池田に戻るつもりです。
と言っていたら、今、伯母が亡くなった知らせが………
明後日が通夜、明々後日が葬式だそうです。
父の兄の妻(ボクの伯父の奥さまです)で、
父の時に最も世話になった本家の従兄弟のお母さまです。
頑張らねば………
2013年9月20日